人生論の最近のブログ記事

397103_222556551168990_100002439406083_486687_1884501222_n.jpg50代とおぼしき妙齢の白人女性が機内で席につくと彼女は自分の隣が黒人男性であるという事に気がついた。周囲にもわかる程に激怒した彼女はスチュアーデスを呼んだ。スチュアーデスが「どうなさいましたか?」と訊くと「分からないの?隣が黒人なのよ。
 彼の隣になんか座ってられないわ。席を替えて頂戴」。
「お客様。落ち着いていただけますか。当便はあいにく満席でございますが今一度、空席があるかどうか、私調べて参ります」そう言って去ったスチュアーデスは、数分後に戻って来てこう言った。
「お客様、先ほど申し上げましたように、こちらのエコノミークラスは満席でございました。ただ、機長に確認したところファーストクラスには空席があるとのことでございます」  そして、女性客が何か言おうとする前に、スチュアーデスは次のように続けた。「お察しとは存じますが、当社ではエコノミークラスからファーストクラスに席を替えるという事は通常行っておりません。しかしながら、或るお客様が不愉快なお客様の隣に座って道中を過ごさざるをえない、という事は当社にとって残念な事になると判断いたしますので当然事情は変わって参ります」そして黒人男性に向かってスチュアーデスはこう言った「ということで、お客様もしおさしつかえなければお手荷物をまとめていただけませんでしょうか?ファーストクラスのお席へご案内します」近くの乗客が、歓声をあげるのをその白人女性は呆然と眺めるだけであった。立ち上がって拍手を送る者もいた。

DSCN1406.JPG新聞広告でみた思いがけない本で、長年の私の疑問に解決の糸口が見つかりました。
 この本のタイトルに「親切は」と書かれてはいますが、これを「人を愛することは」とか「ボランテイアは」とかに置き換えても良いのです。脳下垂体後葉から分泌されるオキシトシンというホルモンの働きに関して長年私は疑問に思うことがありました。
 この本は素人向けの本で学術書ではありませんから厳密に批判する必要もないでしょうが、結論を導き出す根拠があまりにもいい加減で科学者の書く本としては慎重さが足りないような箇所が多いように思います。しかし私はこの本がヒントになってオキシトシンについて多くのことを学びました。この本の内容について関心をお持ちの方は続きをお読みください。

 

    余り面白かったので或るお寺の住職さんの話をのせました。 
 初めての海外旅行でインドに一人で行った時の話でね、荷物を3つ持って行ったんです。移動で寝台列車に乗っていたんですが、荷物を盗られると聞いていたから、1つを枕の下、もう1つをお腹に抱え、そして、最後の1つを足元に置いて寝ていたんですよ。

で、途中でトイレに行きたくなり、寝台列車のカーテンを開けたら、まず靴が無くなっていて。でもカーテンを閉めておいたら大丈夫だと思い、足元に置いていた荷物だけそのまま置いてトイレに行ったんです。

でも帰ってきたら、その荷物が無くなっていて......。残りのこの2つは盗られてたまるか! と頑張っていたんですが、またトイレに行きたくなっちゃって。そしたらインド人が来て、「私が荷物を見ておいてあげるよ。任せなさい」と日本語で言ってきたので、「じゃあ、1つだけ見ておいてね」とお願いしたんだけど、トイレから帰ってきたら彼ごと鞄が無くなっていて......。もう腹が立つのと怖いのと。そしたらまた、「どうしたんですか?」と日本語で話かけてくる人がいたんだけど、よく見たら私の靴を履いていて。「これは私の靴だろ?」と言っても、「違う、ずっと履いていた靴だよ。何言うんですか」と揉み合いに。

そうこうしているうちに、次は私の寝台車に5~6人の人が体育座りでどんどん寝だして。必死に追い出して、この最後の荷物だけは盗られるもんか、と意地になっていたんですが、何だか荷物が3つあった時より気持ちが楽になってきてね。というのも、盗まれた荷物のうち1つは服で、足りない分は現地で買えば良いし、もう1つはインドの友達に渡すお土産だったんだけど、どこかで別の誰かが喜んでくれれば良いかなと。そしてこの時に、お釈迦様が執着を捨てなさいと仰っていたのはこのことで、物というのは持っていると苦しいけど、無くなっちゃえば案外楽になるなと。物だけじゃなくて、こだわりや、こうなりたい、格好良くみせたいというような願望ばかり大きくなると、本来の目的とずれてくると思うんですよね。

| コメント(2) | トラックバック(0)

 終戦記念日の戦没者慰霊祭に厳粛な気持ちでNHKのテレビを通じて参加しました。黙祷中に頭に浮かんだのは、海軍で戦死した叔父(父の弟)の事でした。私の身内では唯一の戦死者です。
 凱旋兵士(戦死者)を迎える駅前の人の列の中を、紙切れ1枚しか入っていない白木の箱を両手で抱えて歩いた軍国少年の私は少し誇らしい気持ちでした。天皇陛下の御為に命を捧げることは日本男児の本懐であると信じていたからです。
 僕も後に続きたいと陸軍幼年学校の受験準備中に戦争が終わりました。
 天皇の人間宣言、教科書に墨を塗る、人生の意味を求めて悩んだ高校生時代、天皇教の信徒からの回心と次つぎに思い出されてきます。カトリックの信仰を除いて私のその後の人生は想像することもできません。
 いつも、よろこびを忘れずに いなさい たえず祈りなさい どんなことにも感謝しなさい テサロニケ5・16

 この文章はブログのカテゴリー「人生論」の「紋別の森の仙人からの大きな贈り物」の項目の続編です。 この度、遠方にすむ尊敬すべき友人からの情報で「降りてゆく生き方」http://www.nippon-p.org/concept.html と云う映画のコンセプトを教えられました。全面的には納得出来る訳ではありませんが、私は昔読んだ「成長の限界」が何時も気になっていましたが30年たった今も環境問題や資源の枯渇に悩みながら経済成長至上主義的な世界の動きは止むこと無く続いています。これには誰もが不安を感じないはずはありません。経済の緩やかなマイナス成長こそ人類の進むべき道だと云うのが「降りていく生き方」などだとすれば私にも賛成できます。経済学に暗い私にはこのような問題を論じる自信はありませんが、拝金主義の誤りは既に2000年も前にキリストが教えたことです。
 経済成長率が二桁の国もありますが、人類の7人に一人は飢えているという現実を見ると、経済成長よりも、貧富の差の解消の方が緊急の課題のようにも思います。それには私たちを含む豊かな国の人間がどの程度まで降りてゆけばいいのでしょうか?しかし、一度贅沢の味を知った私たちが降りていくのは不可能に近いことです。

DSCN0641.JPG "今日の出来事"に書きたい事でした。今月2日私は知り合いの結婚式にお招きを受けて広島に行きました。カトリック教会での式の後,披露宴で私はスピーチを頼まれました。結婚式の聖書朗読で「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」というキリストの言葉がありました。そこで、私のスピーチでは「私があなた方を愛したように」というのは神が人を愛されるような愛の形,すなはち「無償の愛」を意味します。
 私たちの住む社会では"Give and Take"の考え方が普通です。ものを与えれば当然それに見合う代償を期待します。払ったお金に見合うサービスを要求するのは商取引の世界では当然のことです。
 夫婦の愛にこの考えを取り入れてはなりません。「私はあなたのためにこれだけの仕事をしているのにあなたは,何もしてくれない」という不満は Give and Take の考えに汚染されたものです。キリストの愛は報いを求めませんGive and Give 与え続ける愛です。それじゃ損だ!そうです。損することです。キリストはそのために十字架上の苦しみすら忍び命すら与えてくださったのです。
 それがGive and Give 報いを期待しない愛です。と言うようなスピーチをしました。ところが今日その新婦から毎日Give and Give を忘れないで生活していくために自分のメールアドレスをgive-and-give@・・・・としました。という嬉しいメールが来ました。
   (写真は五島の楠原教会の墓地に立つキリスト像です。
             写真をクリックすると拡大されます。)

| コメント(0) | トラックバック(0)

DSCN6668.JPG 今年はチューリップが咲くと直ぐ寒波襲来で花期が異常に長く3週間も咲いていたが今日が最後。
 私はチューリップを見れば思い出したくない悲しい慚愧の念がわく。
 亡くなる2年前か、母がチューリップを庭に沢山植えて欲しいと言った。
 私はこの庭には似合わないからと母の意見に反対した。母はそれ以上は何も言わなかった。その後、毎年この季節になれば私は強い後悔の念に苛まれ悲しくなるのです。あの時どうして母の希望を聞いてあげなかったのか!庭に似合わなくてもいい、庭中チューリップになるほど一杯植えてあげれば良かった!!ご免なさいお母さん。

  紋別の森に生きる徳村彰さんの思想を理解しようと更に読み進んで行くと、それは頭で考えられた事ではなく体全体で感じた事であり、言葉に表現するのが極めて困難な感覚らしい。「《森》はマンダラの神髄は私にもまだ見えていません。そのまわりをぐるぐる回っているようで歯がゆいのですがドキドキし、ときめいているのはすぐそこまできているのかもしれません」(数年前の記録)というところから、更に進んで「木や山菜やキノコたちと私との間に常識を越えた愛の関係が生まれる。私が森に惚れ込んだと言っても私の一方的な思いではなく、彼らもまた優しく体を開いて受け入れてくれ森と私との境が消えて《森》というものに私がとけ込んでしまった一体感、森の無数の生命が自由で多様で多元的に結ばれた互いに支え合う愛の関係」などの表現が続き、木や草の命や霊気と徳村さんの魂が溶け合ったような不思議な愛の感覚らしい。その至福の感覚によって心身が癒される喜びに浸るようです。事実心だけでなく身体も癒され、医師から後2年の命と宣告されていた病気が《森》に来て20年の間に年々健康になり体力も筋力も若い時よりすぐれて来たらしい。
 最後に「《森》はマンダラ この想いが思想にまで深まったとき、未来を開く何かが見えて来るに違いない」(2006年2月24日おじじ記)と結ばれています。それから4年が経っていますから徳村さんは既に思想にまで深め終えておられるに違いない。それはもう一度お会いしてお話を聞くしかない。
 「一神教の人間中心主義が物質文明を異常に発達させ《森》の命を奪った、この欧米文明全盛の時代、アメリカの時代、科学万能の時代は今に幕を閉じようとしています。それに変わって《森》の時代が訪れると信じています。《森》土と水と木を組み合わせた《森》という字を見ていると沢山の命が見えて来ます。この命を甦らせ輝かせる生き方を探したい。」徳村さんの思想を十分に理解し短い文章にまとめる事はまだ私には出来ませんが。「森の全ての生物の命に区別はない」とか「森の中のあらゆる命が、縄文時代からの日本人の心にある森の神である」「山川草木悉皆成仏」などなど、徳村さんの思想はどうも汎神論か縄文時代のアニミズム的精神風土を礼賛し仏教的世界観を受け入れているように見えて、一神教であるカトリックの教えを堅く信じている私の思想とは全く異なるものであり、私の立場からの話しもお聞き頂きたいのですが、長くなるので、それは後にしましょう。
 それよりも、上に書いた徳村さんの思想から私は一つ強い反省を迫られ、大きな飛躍へのヒントを頂き、わくわくするほど喜んでいます。
 私もカトリックへの入門に当って神は天地万物を創造し司る霊であり、永遠の存在であり(宇宙の存在する前から、未来永劫に存在する)そして、遍在(どこにも存在する)そして、完全な愛そのものである・・・・・・事を教えられて知り、信じている訳です。徳村彰さんが森の中で《森》の命と一体になり大きな愛に包まれる至福を感じるのなら、私は全能の神の愛に包まれているから幸せであり常に至福のときを過ごし喜びと感謝の毎日を過ごしている筈です。しかし私のそれは理屈の上の知識であり頭での信仰です。
 徳村さんが《森》の中で感じる事が出来るなら、私はこの信仰が深まれば何処にいてもそれを感じられる筈です。森の中にだけではなく徳村さんの嫌いな都市のビル群の中にだって、私の信じる愛そのものである全能の神は遍在するのですから。
 よーし、私は頭ではなく全身でそれを感じるぞ!と意欲を燃やし始めたのです。その意味で、私は紋別の森の仙人から頂いた大きな贈り物に感謝しています。
文中「・・」は徳村さんの文章《森》は木の下に水と土を並べた文字です。

DSCN6566.JPG紋別から旭川に向う深い森の中を走りながら運転している瀬川さんは先生に会わせたい人が居ると言って横道に逸れた。紋別から何10km山奥に入っただろうか背丈をはるかに越える雪に埋もれた一軒の山小屋に着いた。そこに住む老夫妻の暖かい笑顔に迎えられた。
これが徳村彰(82)・杜紀子(76)ご夫妻で「おじじ・おばば」と呼ばれている人である。横浜からこの紋別郡滝上町滝西の人里離れた山中に住み始めて27年になる。この人の森での長い生活で得たユニークな世界観を簡単に述べる事は難しいが「森はマンダラ」という思想に到達した。
 彼は自然を破壊した現代文明を鋭く批判して語る。ブナの森の中に居ると自然の生命の愛に満たされ心も体も癒され至福を感じると。
 この愛(至福)は人間中心主義の都市の生活で絶対に得られなない。この愛の無い乾き切った物質文明は滅びの道を突き進んでいて、やがて森羅万象すべての命が愛にみたされた新しいモリの時代が来るという。
 私は最初ヒンズーの「林住期」?日本的なアニミズム的精神?天台密教の「草木国土悉皆成仏」の思想?汎神論?などに彼の生き方や思想を当てはめようとしたが、そのどれにも当らない。彼の「森の命から受ける愛と生の喜びの本質」を理解しようとしながらこの思索が、私の信仰を見直して私も益々大きな神の愛を知る至福にと導かれそうな予感がし始めている。これについて書けば長くなるので今回はこの辺でひとまず終るが私はこの人に会えた事がとても嬉しい。今回の北海道旅行の意義が倍増した。この機会を作って下さった瀬川さんのご好意に心から感謝している!この仙人は「森」という文字を木と水と土で現します。彼の著書(写真)でその文字を見て下さい。
 

  卒業生(広島学院6期生)の東京在住者の新年会で、ひとり一人が近況などを喋ったことをメールで送ってくれました。
 その中に、女性は「金」男性は「鉄」だ。と語った人がいたそうです。
意味は鉄は鍛えれば鋭利な日本刀のようにもなるが、鍛え方を誤ると錆びるしクズ鉄にもなる。つまり男という生き物は、精神と肉体を鍛えないと駄目になる。しかし女は違う。放っておいても金は金。存在そのものが不変なのだ。鍛えなくても駄目にはならない。と云うのです。
 男はそれで良いとしても、女は「金」だというのはどうでしょうか?銀・銅・鉛など色々ありそうです。鉄の女だってあるでしょう。そもそも性別でこのように決めるべきではないように思います。これを語った人は人間観察が足りないように思うのですが、酒の席での話を真面目に問題にする必要はありません。しかしその席に私が居たら酒の勢いで白熱の議論が続いたかも?と想像して、ちょっと面白く感じました。(笑)

 

最近のブログ記事

star人種差別「実際にあった話」 2012:02:03:20:46:08
star信頼ホルモン 2012:01:13:07:15:12
starあるお坊さんの話 2011:11:25:07:01:39
star終戦記念日に思う 2011:08:16:11:48:29
star経済学に詳しい人は教えて下さい。 2011:01:12:10:47:45
starGive and Give 2010:10:21:21:14:13
starチュウリップは悲しい花 2010:04:29:17:23:43
star紋別の森の仙人からの大きな贈り物 2010:03:13:21:00:00
star紋別の森で仙人に会う 2010:03:12:10:03:05
star男と女 2010:02:10:17:56:09

最近のコメント

star人種差別「実際にあった話」
明 恒次郎 02/042012:02:04:00:22:25
だいちゃん 02/052012:02:05:00:00:08
starヒマラヤの夜明け
阿部 達 01/042012:01:04:01:04:40
倉光 誠一 01/042012:01:04:07:09:40
star初雪です。
Kanrinin 12/192011:12:19:06:14:18
やまちゃん 12/232011:12:23:21:31:29
倉光 誠一 12/232011:12:23:23:01:31
star犬は立ったまま眠れるか?
倉光 誠一 12/192011:12:19:08:16:13
鶴崎直邦 12/282011:12:28:10:26:19
倉光 誠一 12/282011:12:28:21:56:46
Powered by Movable Type 5.04

アーカイブ