紋別の森に生きる徳村彰さんの思想を理解しようと更に読み進んで行くと、それは頭で考えられた事ではなく体全体で感じた事であり、言葉に表現するのが極めて困難な感覚らしい。「《森》はマンダラの神髄は私にもまだ見えていません。そのまわりをぐるぐる回っているようで歯がゆいのですがドキドキし、ときめいているのはすぐそこまできているのかもしれません」(数年前の記録)というところから、更に進んで「木や山菜やキノコたちと私との間に常識を越えた愛の関係が生まれる。私が森に惚れ込んだと言っても私の一方的な思いではなく、彼らもまた優しく体を開いて受け入れてくれ森と私との境が消えて《森》というものに私がとけ込んでしまった一体感、森の無数の生命が自由で多様で多元的に結ばれた互いに支え合う愛の関係」などの表現が続き、木や草の命や霊気と徳村さんの魂が溶け合ったような不思議な愛の感覚らしい。その至福の感覚によって心身が癒される喜びに浸るようです。事実心だけでなく身体も癒され、医師から後2年の命と宣告されていた病気が《森》に来て20年の間に年々健康になり体力も筋力も若い時よりすぐれて来たらしい。
最後に「《森》はマンダラ この想いが思想にまで深まったとき、未来を開く何かが見えて来るに違いない」(2006年2月24日おじじ記)と結ばれています。それから4年が経っていますから徳村さんは既に思想にまで深め終えておられるに違いない。それはもう一度お会いしてお話を聞くしかない。
「一神教の人間中心主義が物質文明を異常に発達させ《森》の命を奪った、この欧米文明全盛の時代、アメリカの時代、科学万能の時代は今に幕を閉じようとしています。それに変わって《森》の時代が訪れると信じています。《森》土と水と木を組み合わせた《森》という字を見ていると沢山の命が見えて来ます。この命を甦らせ輝かせる生き方を探したい。」徳村さんの思想を十分に理解し短い文章にまとめる事はまだ私には出来ませんが。「森の全ての生物の命に区別はない」とか「森の中のあらゆる命が、縄文時代からの日本人の心にある森の神である」「山川草木悉皆成仏」などなど、徳村さんの思想はどうも汎神論か縄文時代のアニミズム的精神風土を礼賛し仏教的世界観を受け入れているように見えて、一神教であるカトリックの教えを堅く信じている私の思想とは全く異なるものであり、私の立場からの話しもお聞き頂きたいのですが、長くなるので、それは後にしましょう。
それよりも、上に書いた徳村さんの思想から私は一つ強い反省を迫られ、大きな飛躍へのヒントを頂き、わくわくするほど喜んでいます。
私もカトリックへの入門に当って神は天地万物を創造し司る霊であり、永遠の存在であり(宇宙の存在する前から、未来永劫に存在する)そして、遍在(どこにも存在する)そして、完全な愛そのものである・・・・・・事を教えられて知り、信じている訳です。徳村彰さんが森の中で《森》の命と一体になり大きな愛に包まれる至福を感じるのなら、私は全能の神の愛に包まれているから幸せであり常に至福のときを過ごし喜びと感謝の毎日を過ごしている筈です。しかし私のそれは理屈の上の知識であり頭での信仰です。
徳村さんが《森》の中で感じる事が出来るなら、私はこの信仰が深まれば何処にいてもそれを感じられる筈です。森の中にだけではなく徳村さんの嫌いな都市のビル群の中にだって、私の信じる愛そのものである全能の神は遍在するのですから。
よーし、私は頭ではなく全身でそれを感じるぞ!と意欲を燃やし始めたのです。その意味で、私は紋別の森の仙人から頂いた大きな贈り物に感謝しています。
文中「・・」は徳村さんの文章《森》は木の下に水と土を並べた文字です。
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